熊本大学大学院人文社会科学研究部(法学系)・環境安全センター長
外川 健一
1.はじめに
前々号の筆者(外川)が担当した第158回では、「修理する権利:right to repair 」について欧州での業界団体セミナーでの議論を紹介した。ところで、筆者が九州支部長を務める廃棄物資源循環学会のメイン雑誌の1つ『廃棄物資源循環学誌』の最新号(令和6年5月 第35巻 第3号)にて、特集 「リペア・リユースと循環経済」として数本の研究論文が掲載された。
この中からここで紹介しておきたい論文が2本ある。1本目はElizabeth ChamberlainとKyle Wiens(日本語訳 土井みどりおよび廃棄物資源循環学会誌編集)による「修理する権利を取り戻すiFixitの活動」(以下「iFixit論文」と略す。)である。もう1本は椎名葉(米国ニューヨーク州弁護士)による「米国における修理する権利論と政策動向」(以下、「椎名論文」と略す。)である。いずれの論文も、電子・電気機器(パソコンやスマホが中心)の「修理する権利」に関する話が中心であるが、自動車やトラクターなどの修理する権利にも触れられている。
2.iFixit論文
まず、「iFixit論文」であるが、このiFixitという会社の成り立ちや様々なエピソードが知れて、大変興味深かった。この会社は、カルフォルニア・ポリテークニック州立大学のサンルイスオビスポ校の大学寮の部屋で始まったという。iFixitの共同創業者で、現在はCEO Kyle Wiens がまだコンピュータ科学の学生だった頃、Apple社のiBookをベッドから落として電源プラグを曲げてしまい、上手く動かなくなったことがこの事業を始めたきっかけだという。
もともと彼は家庭の事情で、モノの修理を体験することが多かったので、ノートパソコンを開けて故障箇所の特定を試みた。すると電源ソケットがロジックボードから外れていたことが分かったので、ルームメイト(Luke Soules、iFixitの共同創業者)の力を借りて、はんだごてを用いて自分で修理することにした。その際にオンラインでサポートを探したが、彼がこの修理に必要な情報は、絶望するほど見つからなかった。実際、Appleは修理マニュアルもスペアパーツも提供していなかったのである。
しかし、さすがアメリカ。Appleファンのフォーラムに、Appleの製品を自分で修理しようとする人々のサポートがあったそうだ(逆説的に言えば、それしかなかった。いかにも自由の国、Do it yourselfのアメリカらしい)。
この自分の体験を基に、Kyleはノートパソコンの修理ガイドを作成し、オンラインで公開した。その修理ガイドは瞬く間に、世界中の同じ問題に突き当たっているAppleユーザーの目を引いた。当時は比較的簡単な修理をしようにも、必要な情報や部品の供給が皆無だったからである。
そこで、KyleとLukeは部品の入手困難性という問題に対処するために、中古のApple製品を手に入れては分解し、ここで取り外された部品をオンラインで提供するサービスを始めた。このあたりも、ビジネスのヒントを得たら最初は地味な作業をコツコツ行うことが、成功のカギであることを物語っている。
顧客の需要に応えるためにLukeは寮の部屋のクローゼットを整理し、Apple製品のスペアパーツで埋め尽くした。そして多くの顧客を獲得した。繰り返しになるが、Apple製品を修理するための必要な資料も部品も、誰も入手できなかったからである。
創業者の2人は、修理対象製品をApple製品すべてに拡大した。このビジネスモデルは、メーカーが修理を自社のサービスセンターにて行うよう限定する場合にも、ユーザーが自ら修理することが可能とするものであり、実際にそれを可能にしたのがiFixitの企業理念となった。
しかし、彼らは多くの電子・電気機器が修理不能なデザインをしていることを発見する、2007年から、同社の社員は新製品が販売されると同時にそれを入手し、分解した。同社が発売と同時に分解を手掛けたのは、初代iPhoneであった。分解はiPadの分解の経験が活かされ、比較的スムーズに進んだが、ここでこの製品が修理不能なデザインであることを知る。バッテリーがiPhoneのマザーボードに「はんだ付け」されていたのである。iFixitは、「バッテリーを取り外せない製品」という問題に直面した。
しかし興味深いのは、2008年に第2世代のiPhone3Gを、彼らが販売と同時に入手し、分解したところ、バッテリーの「はんだ付け」は行われておらず、何度も着脱が可能なコネクターで固定されるようになっていた。しかしiPhone3Gのバッテリーを交換するには「取り外さないでください」と書かれたステッカーの下のねじを取り外し、ロジックボードを取り外す必要があった。Appleはこのように修理させないスマホを販売させようとしていたのである。
すでにiFixitの存在はAppleも認めるところになり、次のiPhone4はカリフォルニアのiFixitにApple自身が届けてくれたという。そして、このモデルには大きな問題は感じなかったが、日本で販売されているiPhone4の表面が、新しいタイプの特殊なねじで固定されていたことを知る。このタイプの特殊なねじは2009年のMac Book Airでも、バッテリー固定のために使用されていた。Appleはすべての製品の表面にこの特殊ねじを使用した。これはAppleからの「修理・分解をさせない」メッセージととらえられた。iFixitはこれに対抗して、Appleの新しい特殊ねじ対応のドライバーを開発し、ユーザーに提供した。この新しいねじを外すドライバーと、外したねじをプラスのねじに代替するセットは2014年に販売が開始され、15,000キットが発送されたという。
この報告では、このエピソード以外にも、携帯電話のSIMロック解除の闘いのエピソードなど、iFixitが使い捨て文化に抵抗した歴史が描かれている。そして、2023年にEUで成立したバッテリー規則では、エンドユーザーが、電子機器に付けられているバッテリーを簡単に取り外せるよう、メーカー等に修理しやすい、外しやすい設計を義務付けるようになった。
筆者(外川)は、この動きがアメリカの「修理する権利」の動きとマッチし、メーカーによる修理しにくい設計、ひいてはリサイクルしにくい設計を阻止する可能性もあると考えている。
3.椎名論文
もう1つの「椎名論文」は、アメリカにおける電子・電気機器の「修理する権利」に関する説明が総論的に書かれているが、自動車の「修理する権利」についての言及が詳しいのが特徴である。
この論文を読んで結構興味を惹いた部分は、「修理する権利」運動について、保守派が多いとされいる共和党も、リベラルが多いとされている民主党も、基本的にはこの権利を支持をしているということである。その理由の1つとして、農業が主要産業である中西部、すなわち共和党の票田でも、トラクター等の機具の「修理する権利」の問題は重要な課題であるからだという。(筆者外川の感想:リベラルの民主党から支持されているのは、やはり環境問題への対応だと思われる。)
これは経営学のテキストでよく出てくる話であるが、ヘンリーフォードのT型フォードの成功は、農民出身だった彼が、農民が作業場に行く時でも安心して乗れる、頑丈で壊れない、安くて機能性が良いT型フォード1種だけを大量生産し、これを全米に普及させたからである。フォードは労務管理にも熱心で、フォードの工場での賃金は相対的に高く、多くの職工がここに職を求めたといわれている。多くの経営者には悪用されていたフレデリック・テーラーの科学的管理法を、T型フォードの加工組み立て工場の現場で採用し、標準課業を定め、それ以上の成果を挙げた労働者には出来高払いの高賃金を支払った。ただでさえ、賃金が良いとされるフォードの工場での生産性はさらに上がり、また高品質の確保の実現にも、彼ら労働者の「やる気」が反映された。そして大量生産による規模の経済も活かされ、T型フォードの1909年の発表当時の価格900ドルが、1925年には250ドルまで大幅に値下げすることができた。「誰でも買える、長持ちして、頑丈な車。貧しい農民の足にもなる車」。フォードの夢はある程度は叶ったともいえる。
しかし、時代は変わる。天才経営者と呼ばれるスローンがGMを率いるようになったとき、アメリカ社会はバブル経済の中にあった。フォードはあくまでも機能性が良く、安価で安全なT型フォード一種の大量生産にこだわったが、スローンは人間の心理を巧みに突いたのである。それは、人間という生物が飽きっぽいこと、他者と違うこともしたがる、見せたがることである。経済学者ヴェブレンのいう「conspicuous consumption. 〈目立つための消費〉」である。スローンは所得に応じて、多様な車種をラインアップした。比較的所得の低い労働者にはシボレーを、中間層にはビュイックを、そして高所得者にはキャデラックという車種を…という具合に、GMが買収してきた会社の車種を、どの所得の階層をターゲットにして販売するのかを調整し、例えばキャデラックに乗るのは、一種のステイタスシンボルである、としたのである。これは日本でもトヨタがレクサスを開発した考え方の一部と似ている。
ところでフォードは自伝でも、「新型モデルの改良点は、旧型モデルとの互換性を持つべきである」という自分の信念を語っているという。修理して、部品を交換して、長く乗ってくれる車。それがT型フォードの強みであった。
その弱点を突いたのがGMのスローンなのである。つまり彼は前述した「所得に応じた多品種生産」を行った。これは後々「フルライン政策」と呼ばれる経営戦略となる。そして数年に1回モデルチェンジを行い、その車を下取りして中古車市場にて販売した。ユーザーは「修理する権利」を活かして、長くその車種に乗るのではなく、最新の機能を持つクルマに買い替えるよう促されるのである。このGMの戦略は「計画的陳腐化」とも呼ばれている。この経営戦略が功を奏して、GMは1930年代にはフォードを追い越し、市場シェア首位の座に立った。そしてこの「計画的陳腐化」は他産業にも普及していく。
ところで、椎名論文では修理の選択肢の制限について、アメリカにおいて法的には競争法、消費者保護法、知的財産法の3つからのとらえ方があるという。
第1の競争法であるが、これは今後EV化、自動運転化が進むにつれ、自動車業界でも問題視される可能性がある。アメリカでは20世紀中ごろ、IBMが多数の顧客に対して集計機:tabulation machine と関連部品を提供しており、この市場の90%を占めていた。これらは主としてリースで提供され、故障した場合はIBMに委託して修理する道しかなく、第3者の修理業者の参入の道は閉ざされていた。このような状態は「抱き合わせ商品」の販売とみなされ、「競争法」の侵害に当たるという判断が示された。その結果、IBMはリースに限らず製品の販売に同意し、結果として修理が可能となった。
自動車の修理に関しては、第2の「消費者保護法」のアプローチが20世紀には注目された。いわゆる大気浄化法:Clean Air Act によって「修理する権利」に係る議論が出はじめた。同法の1990年改正で、自動車メーカーは、各自動車の排気に関連した修理・メンテナンス情報を「すべてのサービス提供者」に公開するように定められた。しかし、同法の適用範囲は「排気」に関する情報に限られ、その他の不具合についての修理、メンテナンス情報について、メーカーは公開しなかった。また、自動車に搭載される情報はその後格段と増えたが、メーカーはそれらの情報公開を拒み、独立系の修理業者は営業ができなくなる危険な状態に陥った。これが各州での「修理する権利」運動につながる。
また、第3の知的財産保護法に関しても、コンパチーブル自動車(「幌やハードトップの取り外しができる、屋根付きのオープンカー車」のこと。日本では一般的に「オープンカー」と呼ばれるクルマの一つ)の布地は摩耗が激しく、多くの修理を必要とするが、製造元はこの布地の独占企業で、この布地とそれを支える枠組み、接続部分の防水密閉装置の特許権を口実に、幌の部分の情報公開を拒んだ。しかし最高裁は幌の部分だけの特許は当てはまらないとして、幌に関する情報公開が認められ、ユーザーや修理業社への「修理する権利」が認められた。
さて、筆者はこの論文で自分の無知を改めて知った。というのは、2001年に史上初の「自動車所有者の修理する権利」法案が、上院では民主党議員から、下院では共和党議員から提案されたが、どちらも可決されず、葬られたという事実があったということを知らなかったからである。これまで米国の調査をする都度、元来アメリカの自動車社会は、Do it yourself の考え方が普及していて、20世紀前半には頻繁に起こる故障に自ら修理する習慣が根付いており、自動車部品メーカーも積極的ではないが、過剰在庫を避けるために年式の低い自動車部品の設計図は、何らかのルートで修理業者が手に入る文化が醸し出されているという感じの説明に、妙に納得していたのである。
そして今世紀に入ったこの頃から本格的に、自動車修理業者の組合は、修理する権利の立法化を真剣に考えるようになったという。
その後複数の州で「修理する法」を制定する動きが、州議会で繰り広げられたが、それらはすべて葬られた。しかし、2012年にマサチューセッツ州で初めて「自動車所有者の修理する権利」が可決された。この法律は州法なのでマサチューセッツ州内でしか適用されないが、自動車メーカーにとってはマサチューセッツ州だけその対策をとるのはコストがかさむため、十分に自動車メーカーへの影響を持つ法の可決であった。
さらにマサチューセッツ州では、2013年同法を補足する「データアクセス法」が成立する。自動車メーカーが修理やメンテナンスに費用なデータを、自動車ユーザーや修理業者に公開することを義務付ける法律である。しかしこの法律後も自動車の「修理する権利」に関する事情は二転三転しているという。いすゞ自動車はマサチューセッツ州在住のオーナー所有のいすゞ製自動車について、修理・メンテナンス方法を共有する通信手段を無効にするなど、過敏ともいえる対応を取った。情報共有基盤が整備されていなかったので、同法に「違反しない」ための措置を行ったという。その後もマサチューセッツ州の一連の法制定に対して、これらを無効にしようとする動きがあったそうだ。例えば2020年に全米自動車イノベーション協会が、マサチューセッツ法の施行禁止を求め、マサチューセッツの州検事に提訴した。ほかにも、2023年6月には全米高速道路交通安全局が、安全上の理由から、マサチューセッツ法に従わないよう助言した。ただし、同局は2か月後態度を翻し、マサチューセッツ法に従うようにと、自動車メーカーに書簡を送ったという。
現在は連邦議会レベルで「修理する権利」に関する議論が続きているという。自動運転などの技術が本格化しようとする現在、今後の展開に注目したい。
4.動き出した九州MaaSについて
2024年8月20日、筆者(外川)が研究委員を兼業している公益社団法人九州経済調査協会(九経調)主催のオンラインミーティングBizcoli Talk が「公共交通の新潮流」というタイトルで開催され、筆者も参加した。
とくに注目したのが、一般社団法人 九州経済連合会(九経連)地域共創部の参事で、一般社団法人九州MaaS協議会の事務局長である木下貴友氏の報告「九州MaaSプロジェクトの背景と概要」である。
周知のとおり、MaaS(マース)とは、Mobility as a Serviceの頭文字をとった略語で、地域住民や旅行者一人一人の移動ニーズに対応して、複数の公共交通やそれ以外の移動サービスを最適に組み合わせて検索・予約・決済等を一括で行うサービスであり、観光や医療等の目的地における交通以外のサービス等との連携により、移動の利便性向上や地域の課題解決にも資する重要な手段となるものである(国土交通省 ウェブサイト https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/japanmaas/promotion/#:~:text=MaaS より)。
私の自宅の西鉄電車の最寄り駅に、8月に入って図1のポスターが掲載されているのに自然と目が向いた。イメージは強烈だが、その内容といきさつについて詳しく知りたいと思っていたので、木下氏の講演は期待して拝聴したが、内容は期待以上であった。そこで、以下、簡単にその講演内容と私が8月23日(金)に、九経調の旧知の常務理事の方にお願いして、九経連にお邪魔して、木下氏にヒアリングした内容をまとめる。
図1 九州MaaSのポスター
https://kyushu-maas.jp/ より引用。
MaaSの考え方は、2010年代から欧州で始まったが、いろいろ調べていく中で、私が関心を持ったのは、フィンランドの動きである。フィンランドには自動車メーカーがない。このため、自動車を購入するほど、国としての赤字は増えるという意識があるという話を耳にしたことがある。そこで、電車やバスは公共交通であるという認識が強い。この点は、移動というサービスの多くが民間企業によって提供されている日本との大きな違いである。そしてフィンランドでは、公共交通サービスの充実という意味で、MaaSの考え方が導入されたという。とくに、MaaS Global社のアプリWhimは世界的に著名な存在である。このアプリで、複数の交通事業者のサービスを統合し、経路検索から予約・決済まで一括で行うことができる。当初は電車やバスなどの公共交通、レンタカーやタクシーとの連携に限られていたそうだが、近年はカーシェアリングやシュアサイクルにも接続されているという。
ところで、筆者(外川)は福岡在住であるが、福岡市は公共交通を西日本鉄道(西鉄)がほぼ寡占しており(例外は福岡市営地下鉄)、バスは市内の一部を除いて西鉄バスがほぼ寡占状態で往来している。しかしこのような都市は日本では例外である(似たような都市として、宮崎交通が寡占してバス事業を運営している宮崎市がある)。
確かに筆者の勤務先の熊本市では、九州産交バスのほか、くまでん(熊本電気鉄道)バス、熊本バス、産交バス、熊本都市バス(旧熊本市営バス)が、都心部は並走している。木下氏は長崎出身であるが、長崎市も長崎バスと長崎県営バスがやはり街中を並走していると教えてくれた。
木下氏が強調するのは、実はかつて日本の交通「事業」は「儲かる」事業だったという史的事実である。確かに阪急の創業者小林一三は、阪急電車沿線に宅地を造成し、各駅まで距離のある宅地にはバスのサービスを提供する等、多くの顧客を電車・バス・不動産事業で獲得した。梅田のターミナルには阪急百貨店を開業させ、消費者の購買意欲を駆り立てた。このほか宝塚歌劇団や阪急ブレーブス(現オリックスバファローズ)の経営にも参画し、阪急沿線の市民に娯楽サービスを提供した。首都圏でも西武鉄道、東武鉄道、小田急鉄道とその鉄道会社が持つバス会社は、ドル箱事業だったのである。
いわゆる高度経済成長期以前は、地方のバス業界も儲かる事業であり、基本的に市場原理で経営されていた。10年ほど前に鑑賞した映画、高峰秀子主演の『秀子の車掌さん』(1941年南旺映画:東宝系、成瀬己喜ぶ男監督)は、井伏鱒二の小説「おこまさん」をアレンジして、甲府の路線バスで車掌として働く少女の姿と、お金儲けのために(だけ)バス会社を経営している社長の姿をコミカルに描いた秀作である。なるほどこの時代の日本人の移動手段としてバスは重要な手段だったのだと改めて感じた。(この映画は現在DVDとして気軽に入手できる。昭和初期の日本の風景や戦前の庶民の姿を想像するには秀逸な作品である。)成瀬監督は、自身の最高傑作『浮雲』(1955年 東宝)を、高峰秀子主演で演出しているが、『秀子の車掌さん』は、成瀬・高峰コンビの最初の作品と最近知った。
しかしマイカーが当たり前の時代となると、とくに地方の鉄道やバス事業の利用者は、中高生の通学手段もしくはお年寄りの通院手段がメインとなり、少子化とともに若者の需要は減少していき、老人も福祉施設のデイサービスのバスや、介護タクシーなどを利用するようになってきた。
最初に紹介したフィンランドは、鉄道やバス事業は「公共事業」であることが昔から変わりないのだが、日本の場合は私鉄や民間企業が経営するケースもあれば、分割民営化はしたものの、かつては国鉄もあり、公共事業としての側面も少なからず持っていた。現在も首都圏や京阪神では、相変わらずJRと私鉄および公営バスと私鉄等が経営するバスとが並走しながら、都市交通を担っている。しかし、九州のような多くの過疎地を持つ地域は事情が違う。
九州の場合は、もはや市場原理でバス事業はできない。そこで、2021年4月に熊本市の路線バス5社は共同経営をスタートさせた。これは全国初の試みである。公正取引委員会も独禁法違反には該当しないと認めたといわれている、地方公共交通の生き残り策であり、「競争」ではなく地域の移動手段を「共創」しようとする試みとも解釈できる。なお、2022年4月には長崎市においても、ライバル2社の路線バスが熊本での例を見習ってか、共同経営をスタートさせている。
この事例が代表するように、地方のバス事業やタクシー事業が生き残りをかけて創設されたものが九州MaaSなのである。
輸送サービスの連携は、2019年5月にJR九州が第一交通産業との連携を開始したことに端を発する。
https://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2019/05/30/190530daiichikotsuteikei.pdf および図2参照。
具体的には、両社が提供するスマートフォン予約アプリの連携を開始し、将来的に「MaaS」の実現を視野に入れた新たなサービスの検討を開始した。
そしてこの動きを加速させたのが、福岡都市圏では「犬猿の仲」?であった西鉄とJR九州の連携である。
図2 JR九州と第一交通(タクシー会社)との2019年の連携によるキャンペーン
2019年10月のJR九州と西鉄の連携の内容は、連携当初の取り組みとして、MaaSの活用について具体的な検討を行い、両社の持つ公共交通を活かした情報提供サービスを展開することで、移動の利便性向上を図ることを定めた。さらに、利便性が高い持続可能な公共交通ネットワークの構築に向けて、新たなテクノロジーを活用しながら、両社で連携して取り組んでいくというものである。そして両社のMaaSのアプリとしては、西鉄が主導して開発していたものを採用することとなった。その一番の理由は西鉄がMaaSの分野でトヨタと一緒にアプリを開発していたからであると考えられる。
https://nnr-nx.jp/article/detail/12 参照。
九州MaaSではこの西鉄とトヨタが2018年2018年11月より福岡市で実証実験を実施し、翌19年11月から福岡市・北九州市で本格スタートしたマルチモーダルモビリティサービス「my route(マイルート)」を採用した。これによりユーザーは、さまざまな交通手段を組み合わせたルート検索によって、移動手段の選択の幅を広げることができ、地域の回遊性を高めて「にぎやかなまちづくり」を目指す、MaaS系アプリの先駆けでもあると、西鉄・トヨタは自負していた。
九州MaaSには、福岡の大手タクシー会社第一交通が参加しているが、このほか熊本のタクシー大手TaKuRoo https://takuroo.jp/ も参加している。その先駆けとして、2022年3月に「九州産交バス・JR 九州・TaKuRoo」の 3 社での連携を開始している。
ところで、高度経済成長期以降も日本のタクシー業界は旧運輸省のバックアップも受けながら、私的企業として一定の利潤を得ることができていた。個人タクシーとして独立オーナーが走っているのも、この業界の特徴である。しかし、業界の風雲児が価格破壊を起こす。代表例が福岡の第一交通と同様、全国展開を図っている京都市に本社のあるエムケイタクシーである。地域ごとに統一された運賃体系が当然だった当時のタクシー業界に疑問をもったエムケイは、1982年運輸省を相手に「運賃値下げ裁判」を起こす。この裁判は和解という形に終わったが、その結果エムケイの運賃値下げが承認され、京都のユーザーがエムケイを積極的に利用するという事象が当初は観察された。
その後、小泉首相の時代にタクシー業界への参入障壁がより緩和され、この業界は供給過剰に陥ったともいわれている。(なお、エムケイの価格破壊は、2024年8月現在は目立った行動はとられていない。あったとしても、深夜の割り増し運賃が他社より若干低いくらいだという。)
さて、タクシー業界を九州MaaSに引き入れるもっと大きなきっかけは、やはりパンデミックであったという。これをきっかけに感染リスクを恐れて交通機関の利用が落ち込み、電車やバスの減便が行われ、タクシー業界も大きなダメージを受けた。それまでの九州のタクシー業界は、まだ収益が見込める業界であった。しかしパンデミックをきっかけに市場ニーズとドライバー需要が合わなくなってしまった。とくにコロナ禍は、緊急事態制限に次ぐ営業時間の短縮要請、そして飲食業界の「自粛」があり、夜間にタクシーを動かしていたドライバーにとっては大打撃の時期となった。そこでこれまで正社員で一番儲かる夜間・深夜の時間帯にタクシーを動かしていた社員の多くが、昼間の時間へシフトした。しかしいったん昼間の業務に慣れたタクシードライバー(とくに高齢者ドライバー)は、今更夜の危険な街を運転することに躊躇したのである。さらに、地方では流しのタクシーはほとんど見られなくなった。結局コロナ禍を契機に、退職するドライバーも出始めた。現在は、時間帯によってとくに需要と供給のミスマッチが起こっている。2024年本稿執筆現在、九州での深夜タクシーは需要にマッチした数が走っていないらしい。このような隙をついてというわけでもないだろうが、ウーバーやGOタクシーなどの、アプリで呼び出し、決済も行うタクシーが、MaaSともいえる形で本格的に登場した。
いずれにしろタクシー業界では、需要に応えるために国土交通省が提案している日本型ライドシェアを導入し始めた。九州では東京や名古屋に遅れて、まずは福岡県が2024年6月から運用を開始した。このシステムは、一般の民間人ドライバーがタクシー会社の管理下で乗客を有償で送迎するシステムで、タクシー需要に応えるため、主としてウィークディの昼間の時間帯に、一般民間人ドライバーの副業として、彼等のサービスを当てはめるものである。福岡エリアは最大520台分のタクシーが不足していると試算されていたので、ライドシェアでどれだけ緩和できるか注目される。
2024年7月16日の九州朝日放送の特集によれば、日本型ライドシェアは若い年齢の利用や、海外からの観光客の利用が多いという。また、二種免許取得前のドライバーの訓練としての活用や、就活を行っている学生のインターンシップの内容として、ライドシェアを経験してもらうことも、あるタクシー会社では検討されているという。https://www.youtube.com/watch?v=S_EBd9BksFM
このような日本型ライドシェアは、九州MaaSとは直接関係のない話であるが、JR西日本と西日本鉄道(西鉄バス)、さらには熊本市のバス5社連盟、長崎市のバス2社連盟、第一交通とTaKuRooといったタクシー会社も参画して、1つのアプリを使って移動手段を提供する試みであった。そして、九州地方の交通サービスインフラを拡充させ、ユーザーにきめ細かい移動サービスを提供する手段として注目される。九州MaaSへ参加するタクシー会社やバス会社が一定数に達したのは、各社で独自にサービスプラットフォームを維持するには、コストの負担が大きいからでもある。
熊本では、熊本県内で路線バスや鉄道を運行する5つの事業者および熊本の市電が、運賃の決済手段のうち全国交通系ICカードを年内にも廃止し、今年度中にクレジットカードなどのタッチ決済を導入する方針を決めた。理由は、運賃の支払いに使われる全国交通系ICカードに対応する機器の更新時期が迫り、更新にかかるコストが大きいから、このシステムを廃止するのだという。交通事業者が全国交通系ICカードによる決済を導入し、その後廃止するケースはこれまで聞いたことがないが、これもサービスプラットフォームの維持コストの負担が、いかに交通サービス業の負担になっているかを物語っている。
改めて、九州MaaSについて、概観したい。このシステムは、九州が一体となった移動サービスを提供するもので、九経連に事務局を置いて2023年5月に「九州MaaSのグランドデザイン」が公表された。
図3 九州MaaSの目指すべき理念
https://www.kyukeiren.or.jp/storage/upload/pdf/20230602133112_5o43rced9k.pdf
- 九州MaaSの目指す姿と基本理念 から引用。
図3から九州MaaSの目指す形を読み取ることができ。重要なのはデジタル化:DXもあるが、DXは何かをするための道具であり、基本は移動というサービスを提供するフィジカルなものである。図3の②のスローガン、「フィジカルなくしてデジタルなし」はこのことを物語っている。ゆえに鉄道とバスといった乗り継ぎの利便性を向上させる「フィジカルな連携推進」が九州MaaSの大きな柱となっている。
前述した西鉄・トヨタの開発によるmy routeを、九州MaaSのアプリとして採用することとなり、官民連携活かつ広域でMaaSに取り組む全国初の事例、一般社団法人九州MaaS協議会が2024年4月に設立され、この8月からサービスを開始している。
協議会には、九州7県のほか、各県で移動サービスを提供している陸・海・空の交通事業者、損害保険会社、データ利活用により組むベンチャー企業など80を超える会員企業・団体が参画している。
(一般社団法人九州MaaS協議会のウェブサイトは、https://kyushu-maas.jp/)
この動きにタクシー業界もさらに多くの会社・個人タクシーが参画し、日本型ライドシェアも定着すれば、多くの九州や日本全体のユーザー、海外からのインバウンド観光客にとって、九州MaaSはまさに地域活性化の起爆剤ともなる可能性を持っている。今後の展開を見守っていきたい。
謝辞)九州MaaSに関してのヒアリングは、一般社団法人九州経済連合会 地域共創部 参事・一般社団法人 九州MaaS協議会 事務局長の木下貴友氏、ならびに木下氏への橋渡しをしてくださった、九州経済調査協会常務理事の岡野秀之氏にお世話になった。記して深謝する。
参考文献
木下貴友(2024)「九州MaaSプロジェクトの背景と概要」『九州経済調査月報』78-8, 4-10.
追記)本稿執筆後、斎藤国土交通大臣から、日本型ライドシェアを日本全国に普及させる旨の発言があった。各地のMaaSの動向にも注視しながら動向を紹介していきたい。