山口大学国際総合科学部 教授 阿部新
1.はじめに
生産者や新車販売業者といった動脈産業がしばしば自動車のリユース、リサイクル市場に関与する状況が観察される。それらは拡大生産者責任という考え方が生まれる以前から自発的に見られるものであり、決して最近の現象ではない。その動脈産業がどのような形で関わったかであるが、その議論はほとんどない。本稿では、主として阿部(2016)(2018a)(2018b)(2020)に基づいて1950年代、60年代の日本の中古車市場における動脈産業の関わりを抽出することとする。
2.1950年代の下取り競争
まず、新車販売業者(ディーラー)による下取りである。周知のとおり、下取りは新車販売の促進を目的として新車販売業者が自発的に古い車を買い取る。循環経済(サーキュラーエコノミー)においては生産者が古い物品を回収し、それを再利用するケースが観察される。下取りは、循環経済を意識としたものではないだろうが、動脈産業が古い車を回収するという点では循環経済でなされるものと同じである。
日本では下取りについては戦前の文献に既に言及がある(数見,1920)。そのため、早い段階から下取りという経済行動はされていた。その後、阿部(2018a)でも示されているように1950年代になって一般紙などでも下取り競争が激化している様子が報道されている。今回改めて1950年代の下取り競争について調べたが、1950年代後半を中心に下取り競争が激化していることを言及する記事は多くあった。そこでは下取り価格が高くなっている一方で、下取りをした中古車を如何に売りさばくかについて議論している(岩波,1958;経営管理ゼミナール,1959;小型自動車新聞社編,1958;国民経済研究協会,1958;大和銀総合研究所,1958;山一証券経済研究所,1958)。
阿部(2020)では、日本中古自動車販売協会連合会(以下「中販連」)の記念誌から、戦後の中古車販売業は1950年代に形作られたとする(日本中古自動車販売協会連合会編,1982)。そのような中、1950年代半ばに市場に新型車が投入され、戦前からの古い車や払い下げ車を持つ消費者は新しい車を購入し、新車販売業者は下取り車を受け取るようになったという。しかし、当時の新車販売業者は下取り車を販売する力はなく、特定の業者に卸売りするのが唯一の方法であったと記されている。同じようなことは、トヨタ自動車販売(以下「トヨタ自販」)の記念誌にもあり(トヨタ自動車販売株式会社社史編集委員会編,1962)、当時、新車販売業者は下取り車の販売を仲介人に依存していたが、中古車が容易に売れないため、下取り価格も低い水準で抑えられていたようであると示している。
このような中、阿部(2020)は、上記のトヨタ自販の記念誌から、1950年代に新車販売業者は仲介人依存から脱却し、中古車の自社販売に乗り出してきたことを示している。そして、阿部(2020)では、東京トヨペットの記念誌を用いて、1954年6月に日本の新車販売業者で初めて中古車部を設置したという言及を示している(東京トヨペット20年史編纂委員会編,1973)。その背景として、当時の中古車販売には困難な点があったことを言及し、中古車販売業者(正確にはブローカーや修理業者など)へのルート販売と、ベテランセールスマンによるコミッションセールス(歩合)の2本立ての政策をとり、仲介人依存の構造を変えようとしていたとする。
また、他の記念誌でもブローカー、仲介人依存の中古車販売からの脱却について言及している。愛知トヨタの記念誌では、1950年代半ばまでは取引車両も少なく、ブローカーに依存して中古車を販売しても問題がなかったが、1950年代半ば以降は下取り車の入庫も増大し、ブローカーの販売能力を越え始めたとある(愛知トヨタ自動車株式会社社史編纂室編,1969)。大阪トヨタの記念誌でも同様で、下取り車の入庫台数が少ないころは、ブローカーまかせで回転していったが、1950年代後半に新車販売台数が急伸し、月間100台以上もの下取り車が入庫するようになり、営業拠点を持たないような弱小ブローカーの手に負えるものではなくなったようである(大阪トヨタ自動車株式会社社史編纂室編,1978)。仮にブローカーに一括して委託したとしてもその販売能力の限界から現金化は十分にされず、それは新車販売業者の債権保全の上からいっても危険であったようである。
阿部(2020)では以上から1950年代半ばは、新車販売とそれに伴う下取り車の増大が初めて問題として認識された時期ではないかとする。それまでは数量的に少なかったため、下取り車を仲介人、ブローカーに委託しても、新車販売業者の体力を維持できる程度に現金化できていたものと思われる。しかし、それ以降、このブローカー依存の構造では数量的に回らなくなり、新車販売業者の経営に関わる問題としてその構造から転換する必要性が出てきたのではないかと考えられる。
阿部(2020)で示されているように、東京トヨペットが中古車部を設置した直前の1954年4月から5月、トヨタ系新車販売業者6社の社長が調査団を編成して、アメリカ各地の業界を視察した。トヨタ自販の記念誌によると、日本の販売業界では最初の企てとされる。視察全体の目的は明記されていないが、団員が最も強い関心を示したのは、中古車問題であったという(トヨタ自動車販売株式会社社史編集委員会編,1962)。なかでも団員が注目したのは、アメリカの中古車のストック量が有史以来と言われる中で、市場は一定の秩序に従って流通している事実だった。中古車の価格については、NADA(National Automobile Dealers Association,全米自動車販売店協会連合会)が価格表を作成し、中古車の引取価格は適正に保たれ、十分な小売マージンをとって再販売できる業界体制が確立されていると書かれている。
視察団長の山口昇氏(愛知トヨタ社長)の語録によると、中古車問題は新車販売業者だけでは解決のつかない問題であり、生産者(メーカー)出資で中古車をプールする販売会社を設立する案などがNADAの訪問時に議論されたようである。このような新車販売業者による問題提起もあり、翌年の1955年4月5日、生産者の出資によりトヨタ中古自動車販売が設立され、同社社長として神谷正太郎・トヨタ自販社長が就任(兼任)した。トヨタ自販の記念誌によると、その背景として、仲介人依存の販売方式で伸び悩んでいる新車販売業者の動きが言及され、新車販売業者の販売資金の調整指導を行う仕事が、新会社に課せられた主な任務であると述べられている(トヨタ自動車販売株式会社社史編集委員会編,1962)。
具体的に、トヨタ中古自動車販売は、それまで全国のトヨタ系新車販売業者の下取り中古車の月賦販売を取り扱っていた東豊産業(トヨタ自販の系列会社)から中古車部門の仕事を引き継いだ。また、1956年には五反田(東京都)に営業所を開設して直売部門とし、その後常設の「中古車トヨタ市」として運営した。さらに1957年からは中古自動車保険の代理業務も行っている。それら以外に、中古車の市場調査、標準販売価格表の作成、潜在需要者層へのPRなども行われたという。
上記の「中古車トヨタ市」については多くの資料で記述があるが、期間限定のものと常設のものがあったようである。東京トヨペットの記念誌によると、関東ではその第1回は1955年4月15日から1週間の期間限定で、トヨタ自販および関東地区のトヨタ系新車販売業者の共催で行われたことが分かる(東京トヨペット20年史編纂委員会編,1973)。
同記念誌では、「わが国初の中古車展示即売市」であると述べられている。また、関西では同年6月13日から6日間にわたり、大阪市東区馬場町(当時)の馬場町運動場で開催したものが最初で、大阪トヨタ、兵庫トヨタ、京都トヨタの3社が合同で開催したとある(大阪トヨタ自動車株式会社社史編纂室編,1978)。さらに、中古車市は1957年頃から業界各社でも開催されるようになった(トヨタ自動車販売株式会社社史編集委員会編,1970)。その背景としてはやはり、「新車販売と裏腹に,中古車問題が重大化したから」と指摘している。
下取り車の増大に対して、新車販売業者は中古車販売業者を指定店、協力店として、その選別も行った。大阪トヨタでは、従来自然発生的に取引を開始していた中古車販売業者を積極的に活用する方針を打ち出し、1957年3月、出入りの24店が一堂に会し、懇親会を開催した。そこでは、下取り車増加の傾向を説明し、積極的な販売を要請したようである。そして、これをきっかけとして、1958年3月全国にさきがけて、本格的な「中古車指定販売店制度」に踏み切ったという。また、東京トヨペットも同じ頃、東京都内の有力店に働きかけ、希望者と契約をし、それらに同社の看板をかけて、下取り車の消化に協力してもらった。それらは、ブローカー的な片手間仕事の業者ではなく、従来の実績から推して信用のできる中古車販売業者や修理業者であった。同社の一覧表を見ると、取引開始の多くは1957年から58年である。さらに、下取り車の「異常な増加」と中古車の地方への流通が観察される中、同社は1961年から62年にかけて大阪や愛知、静岡などの他府県でも協力店を増やしていった。
これらを見ると、1950年代半ばは下取り車が問題視される中、仲介人、ブローカー依存の構造から脱却するために、生産者出資の中古車販売部門の会社が立ち上がるなど、新車販売業者の経営をサポートする動きがあった。また、セールスマンや指定店、協力店を拡充したり、中古車市などの直接販売を強化したりして、新車販売業者自身も中古車販売に対する意識を変えていった。これらはあくまでもトヨタの事例であるが、1950年代半ばはそのような下取り車の増大に動脈産業が問題意識を持ち始め、中古車市場の質を向上させることで下取り後の流通を効率化させようとしていたと言える。その背景には新車販売業者の経営を圧迫しはじめたというものがある。動脈産業は下取りという形で古い車を回収する仕組みを自らの負担で構築したが、それが行き過ぎとなるぐらいの回収のインセンティブがあったということである。1950年代は動脈産業側がその負担を軽減することを目的として中古車市場の効率化を図ろうとした初期段階だったと言える。
3.過当競争の回避と査定機関の設立
1950年代に下取りが問題視され、生産者や新車販売業者により上記のような取り組みがされたが、1960年代になっても下取りは新車販売における課題であった。阿部(2018a)を見ると、その理由は新車販売業者の経営を圧迫させたからであり、1950年代と状況が変わっていない。1950年代の動脈産業による取り組みは十分ではなかったことが示唆される。
しかも、この時期の下取り率は他国と比べるとまだ低い。阿部(2018a)では、雑誌『自動車販売』の創刊号(1963年6月号)の記事から、1961年の下取り率は乗用車で平均45.1%、再下取り率(孫取り)が8.9%であることを示している。これに対して、アメリカは下取り率が100%近い数値となっており、その値が欧米に近づけば、下取り車の中古車問題はさらに深刻化することが示唆されていると述べている。
このような中、1960年代は過当競争を避けるための議論が進展している。それは査定を中心とするものである。阿部(2018a)では、『自動車販売』の1965年3月号の記事から、1961年6月に日本自動車販売協会連合会(以下「自販連」)の専務理事の主宰で「大都市中古車懇談会」が開かれたことが言及されている。そこでは、査定価格作成の要領、時期、回数、その有効期間、下取り車買い上げの規制、中古車の販売方法、常設市場などを議題として検討したことが示されている。
また、阿部(2018a)では、1963年5月に大阪府において新車販売業者が連携して、大阪自販連オートセンターを設立するという動きを示している。そして、その主目的として①中古車流通機構の確立、②中古車の適正価格のPR、③顧客の利便を掲げ、価格は大阪府中古自動車鑑定協会の鑑定したものを公示し、値引きは行わず、あくまでも信用のある中古車の販売価格を打ち出すことで、過当競争を持ち込まないことにしているとする。
また、似たような動きは神奈川県でもあり、阿部(2018a)では神奈川県自動車販売協会の「中古車オート・センター」(仮称)の設立構想について示している。これは、大阪の中古車センターとは異なり、県下の中古車下取りをすべて同センター行い、個々の新車販売業者は下取りをしないというものであるという。記事の段階では検討中であるものの、同協会の中古車部会内の「専門査定委員会」が中心となり、誰が査定してもばらつきのない公正な評価をしようとしているという。それを受けて、阿部(2018a)では、地域レベルにおいては中古車対策の議論が進んでいることがわかるとする。
上記のような流れがある中で、阿部(2018a)では、1964年になって新たな角度から中古車の査定機関を設立する動きが出てきたとする。それは割賦販売法第9条の「標準条件の公示」に関するものであり、頭金の割合と支払回数を決めるというものである。阿部(2018a)は、『自動車販売』の1964年9月号の記事から、新車の販売に故意に中古車を高取りして、その分を新車の頭金に加えられたら、割賦販売法を発動したことが無意味になってしまうと説明する。そして、第三者からも公正で信頼できるもので、また権威づけられている査定機関が必要になってくると説明されている。
このような流れから1966年6月に日本自動車査定協会が発足するのだが、阿部(2018a)ではその設立にどの組織が携わったかは明確ではない。『自動車販売』の1965年3月号の記事から、自販連が福岡県、愛知県、神奈川県、東京都の中古車部委員を招いて、1965年2月2日に第1回中古車小委員会を開催し、公正な査定機関の設立や標準価格に関する考え方などが議論されたとあるが、設立の過程でなされた会議という位置づけでよいかはわからない。
そこで改めて日本自動車査定協会の記念誌『二十年の歩み』(日本自動車査定協会,1986)を見てみると、同協会の設立に自販連が関わっていることがわかる。具体的に自販連は1964年11月に割賦販売法特別委員会を設置し、標準条件の適用について審議を進めていた。また、1965年2月に自動車工業会(当時、以下「自工会」)と自販連との間で、割賦販売に関する標準条件の設定と中古車査定機関の設立が確認され、生産者、新車販売業者ともに足並みが揃っていることが示されている。さらに同1965年春に当時の業界団体である自工会、小自工(日本小型自動車工業会)、自販連、小自販(日本小型自動車販売店協会)の4団体の実務担当者によるワーキング・スタッフが中心となり、それまで流通合理化委員会、中古車特別委員会及び自販連で検討が重ねられていた査定機関の構想をベースとして最終案が練られたとされる。5月に自販連は自工会、とともに4団体連名で業界としての割賦販売標準条件案を通産、運輸両省(当時)に提出し、割賦販売法第9条の適用を要請した。日本自動車査定協会の当初の本部事務局は自販連内部に置き、職員数はわずか5名だったことなども記されている。これらから自販連ほか動脈産業側が中心になって査定機関の設立に向かっていたということが窺える。
先に示した通り、下取りは古い車を動脈産業が回収するという構造となっており、現代からすると資源の適正な循環に動脈産業が関わっているという見方はできる。経済学的には、使用済自動車の発生等による外部性を考慮しないのであれば、下取りは値引きとあまり変わらず、動脈産業側の合理的な行動の1つであると考えられる。それが行き過ぎており、日本自動車査定協会の設立により、過当競争を是正するという動きである。つまり、動脈産業が自ら起こしていた過剰廃棄とも思える行為にブレーキをかけたという見方ができる。
4.中古車市場の質の向上
下取りした車は新車販売業者にとって、できる限り高値で売却することが望まれる。そのためには、より多くの需要者が取引に参加できる場と、取引対象物である中古車の品質等に関する情報の信頼性の確保が必要である。つまり、中古車市場の量と質を向上させるための整備である。それによって効率的な価格での取引が実現できる。1950年代に新車販売業者の中古車部門の設置や中古車市の開催などで相応の動きはあったが、1960年代にさらなる量的、質的対応を求められたということである。
1960年代は、乗用車の貿易自由化に向けて、査定機関を設立することで過剰な下取り競争を是正する動きがあった。その議論が進む際に、1965年6月から7月にかけて自販連が中心となって欧米の中古車事情の視察団を結成した。阿部(2018b)においても、この「欧米中古車事情視察団」の調査は、日本自動車査定協会の設立という形で業界全体の中古車対策に影響を与えたとする。第2節で見た通り、1950年代に下取り車の増加に伴って新車販売業者は中古車部門を設けるなどの対応をしていたが、動脈産業はさらに中古車市場に踏み込むことになる。阿部(2018b)では1960年代の欧米視察は、個別の生産者において中古車部門を新設、格上げするという意味で中古車対策に影響を与え、動脈産業の姿勢をさらに変えたきっかけの一つであるとする。
具体的には、阿部(2018a)では、プリンス自動車販売(当時)の動きが示されている。同社は1965年9月1日にメーカー、自販を通じて初めて「中古車部」を新設し、全国プリンス系新車販売業者の中古車問題の解決のため教育、指導、助言をする体制とした。阿部(2018a)では、『自動車販売』の1965年10月号の記事における同社中古車部長の諫山薫氏へのインタビューから、新設した背景には、乗用車の貿易自由化、割賦販売法の適用のほかに欧米中古車事情視察団の調査報告の影響もあることを言及する。
阿部(2018a)でも示されているが、視察団の報告書(欧米中古車事情視察団,1965)では、中古車の流通の円滑化が新車販売拡張の鍵であるという考え方が生産者にも認識されていること、米国の三大自動車メーカーやドイツのフォルクスワーゲンのような世界のトップメーカー等では中古車に対する保証制、宣伝、新車販売業者の中古車管理、評価受入基準、販売方法等に対し、積極的な協力、指導に乗り出していることなどが言及されている。先のプリンス自動車販売の諫山氏は欧米中古車事情視察団の団長であり、視察後、中古車部長として自らが動いた形になっている 。阿部(2018a)では、プリンス自動車販売以降、同様の動きは1966年に入りトヨタ、ホンダが続くとする。また、上記以外に独立したセクションを持たないところでも内部的に中古車の調査、研究に乗り出したところも出ており、「中古車問題はディーラーに任せておく」時代ではなくなったことを言及している。
そして、阿部(2018b)では、そのような流れの中で1960年代後半に統一保証制度の議論が起こったことを示している。そこでは『自動車販売』1966年5月号記事から、新車販売業者はそれまでは回転率を早めるため赤字覚悟で業者売りをしていたが、いかに直接販売をするかを真剣に考え始めているとする。それは「中古車でも利益をあげる」という考え方に転換したというのもあるが、下取り率の増加に伴い、業者売りだけでは処分しきれないという消極的な意味合いもあるという。そのほかにも、自動車の耐久性能の向上により、いつ故障するかわからないかつての状況と比べて、保証がしやすくなったということも指摘されている。それ以前も保証制度はあったようだが、それは下請けの修理業者に保証させ、責任を取らせるというものだった。これが上記のような時代の変化により、販売店としての責任を取る方向に変わったということである。
また、阿部(2018b)では、その後の『自動車販売』1966年10月号から、中古車保証制度が販売促進の手段として注目を浴びる中で、系列ごとに運営、実施する動きが見られるようになってきたと述べている。その走りとして、トヨタ自動車販売が系列販売店の足並みを揃え、中古車の共同セールを実施した際、保証付きの販売を行った事例をあげている。また、日野自動車販売において関東地区に限定して統一保証を検討しているほか、日産プリンス自動車販売については京阪地区に限定して統一の保証制度を整備した経緯について詳しく説明している。そしてその統一の困難さを示す一方で、全国展開の流れの可能性を示唆する。さらに『自動車販売』1966年12月号記事から、トヨタ自動車販売が系列として初めて全国統一保証を打ち出し、三菱自動車販売も各ブロックで統一した保証を行う見通しが強まったとある。阿部(2018b)は、このような生産者や新車販売業者の取り組みにより、少なからず消費者の信頼性は生まれ、中古車市場の健全化は前進したものと思われると述べる。
5.中古車市場の量的な対応
上記の通り、1950年代から60年代にかけて下取り競争が課題となり、その是正の議論をする過程で欧米諸国の視察などを通じて中古車市場の質的向上の議論へと進展していった。それは生産者主導で中古車市場に介入し、中古車を商品として扱い、統一品質保証などの動きに繋がった。
このような時期にあたる1967年5月、東京都の高輪プリンスホテルで、トヨタ自動車販売(以下「トヨタ自販」)主催の中古車オークションが開催された。これは動脈産業による中古車市場の流通の量的な対応とすることができる。阿部(2020)では、トヨタユーゼックのホームページのほか、東京トヨペットや愛知トヨタなどの記念誌、各種記事から日本で開催された最初のオートオークションと位置付けられているとする。その後も東京都小型自動車販売協会、日産プリンス大阪販売、京都トヨタの事例を示し、いずれも生産者、新車販売業者系のオークションだったとする。
1960年代後半にオートオークションが立ち上がった背景として、阿部(2020)ではアメリカなどでの視察をあげている。中販連の記念誌では、日本の中古車オークションは、自動車先進国のアメリカから学び、トヨタのTAAやJAAが日本流にアレンジして先鞭をつけたものであると説明している(日本中古自動車販売協会連合会・日本中古自動車販売商工組合連合会編,1992)。そして同記念誌では、1954年4月のトヨタ系新車販売業者によるアメリカ調査団の派遣まで遡り、その視察などで中古車流通対策の調査研究を開始し、その中の1つとしてオークションによる流通のあり方についての検討を行ったとしている。この調査団は第2節で言及したものであるが、1950年代の下取り問題が関係しており、トヨタ中古自動車販売が設立されたきっかけでもある。上記の中販連の記念誌では、この視察が1967年5月8日の中古車オークションに繋がったものと捉えている。
また、雑誌『自動車販売』の1965年9月号では、中古車の査定機関の設立の動きがある中、それで中古車問題がすべて解決するわけではないとしている。そして、これと並行して販売秩序の確立と市場の開発を考えなければならないとし、1965年に派遣された自販連の欧米中古車事情視察団の報告書からアメリカのオークションの事例を紹介している。同記事では、オークションシステムを研究し、これにより中古車の流通を円滑化すべきだとの声があったことを言及している。この自販連の視察団の報告書(欧米中古車事情視察団,1965)では、アメリカのオートオークションのほか、イギリスやフランスでもオークション市場が形成されており、新車販売業者の在庫調整、流通価格の確立に貢献しているとも言及されている。そして、同報告書の結びでは、新車、中古車の流通機構の整備に何らかの対策を講じる必要があるとし、アメリカのオークションシステムのようなものは日本でも検討する必要があるとしている。
一方、阿部(2020)では、1967年のオートオークション開始の背景として、上記のようなアメリカなどの視察があるようにも見えるとしつつも、それが決定的とは思えないとする。そして、1950年代半ばと1960年代後半とでは、新車販売台数の水準が大きく異なり、1960年代後半の下取り車の数も増えていたであろうと指摘する。つまり、1950年代から新車販売業者に中古車部門を設置するなどの対応が行われてきたが、1960年代後半はその対応では量的に厳しい段階になっているとする。阿部(2020)では、雑誌『自動車販売』1967年6月号の記事から、「これまで販売店は自社の流通チャンネルだけにたよって中古車販売をしてきているが,これにもうひとつの限界がある。これをオークションを開くことによって,販売店にしてみれば,新しい流通チャンネルができることになる」という記述を紹介している。
1960年代半ば頃は、中古車の査定の議論が生まれ、それに伴い、生産者が積極的に関わり、市場を健全化するという議論が生まれた。その中で、価格や品質などでの消費者からの信頼性確保とともに、流通機構の整備の議論がされた。阿部(2020)では、自販連の記念誌(日本自動車販売協会連合会編,1979)などから後者の中にオートオークション制度の導入が盛り込まれているとする。つまり、中古車市場全体の構造改革の1つとしてオートオークションが位置づけられている。阿部(2020)では、雑誌『自動車販売』1967年6月号の記事を用いて、トヨタ自販は、これまで実施してきた中古車の統一保証、全国統一キャンペーンなどとともに、中古車卸売りの改善を図るために今回のオートオークションを開催したと説明していると述べる。
加えて、この時期のオートオークションによって、公正な実勢価格による取引が可能になるとともに新車販売業者間の取引の制度化、および市場の需給調整、参加者相互の情報交換ができるなどの理由も挙げられている。似たようなことは、愛知トヨタの記念誌でも書かれており、オークションの狙いは、中古車売買の場を広げるとともに、市場の実情に合った価格設定を行うことにあったとする。雑誌『実業と日本』の1967年9月15日でも「中古車市場の円滑化と健全化という業界のお題目がとなえられている」としている。『ダイヤモンド』1967年5月15日号でも、下取りした中古車はそう簡単にはさばけないとし、オークションのメリットとして、流通面での合理化、公正な実勢価格による取引、新車販売業者相互の情報交換の3点を挙げている。
以上を見ると、1960年代後半のオートオークションは、下取り車がさらに増大する中、マッチングの場を提供し、中古車市場を円滑化させるという量的な対応策として試験的に整備されたように思える。また、同時に品質保証などともに、中古車市場の評価を質的に高めるという目的もあったのではないだろうか。欧米の視察の影響もあるだろうが、この視察の直接的な影響は、中古車市場のさらなる健全化、円滑化へ生産者の意識を変えたことにある。オートオークションはあくまでもその方向性の1つと位置づけられると思われる。
6.中古車輸出
新車販売の促進は、これまで見たような下取り競争の是正および中古車市場の質的、量的対応とともに、中古車を輸出または解体することで、国内で使用しない状態にするという方向もある。ここにも動脈産業が関わっている。阿部(2016)で示されるように、日本の中古車輸出は1963年頃より始まり、徐々に広がっていったとされるが、その背景には下取りされた中古車の増大がある。そのため、新車販売業者がこれに関わることは想定される。実際に輸出が始まった以前の1961年頃に中古車処理対策としての中古車輸出の議論はあり、そこに新車販売業者も関係している。阿部(2016)では、日刊自動車新聞1961 年3 月20 日付記事から、大阪トヨペット社長、大阪日産常務、大阪トヨタ専務が中古車処理問題の立場から東南アジアの市場調査をしたことが示されている。
しかし、阿部(2016)を見ると、中古車輸出が始まり、市場が形成された時点では、中古車の輸出は部品を輸出する商社などが関わっており、新車販売業者は下取り車の排出元として関わる程度で、目立った行動は表面化しなかった。むしろ、輸出に対しては消極的であり、輸出を抑制する行動もあった。1965年に一般紙を含めて、中古車が輸出される実態が報じられるようになったが、生産者、新車販売業者側からの方針で輸出業者への引き渡しが激減しているという動きがあった。つまり、動脈産業側が輸出にブレーキをかけていたのである。阿部(2016)では、複数の記事から一部の生産者が新車販売業者に古い年式の下取り中古車の業者売りを全面禁止したことや生産者が買い取っていることなどを示し、中古車が生産者の管理の外に流れない措置を取っている様子を示している。阿部(2016)は、このような措置の背景に輸出先でのアフターサービスの負担や新車との競合を避けようとする意図があったものと思われるとする。
1965年7月から中古車を輸出貿易管理令に基づく輸出商品品目に加えられ、輸出承認制度の下で輸出がされるようになった。制度化直後は一時的に輸出が減少したものの、その後は制度導入以前の数字に戻り、さらにはそれを上回るペースで増加傾向となった。その後、1966 年になると自動車整備業界で中古車輸出構想というものが出されている。これは、全国小型自動車整備振興会連合会が研究していたもので、アフターサービス体制の確立と輸出入における公共的な統一窓口として、政府保証の中古車輸出機関および仕向け地でのサービスセンターを作るというものである(日刊自動車新聞1966 年1 月22 日)。また、新車販売業者主導の中古車輸出も表面化してきており、大阪トヨペットのほか、大阪日産でも東南アジア向けの輸出を検討していた(日刊自動車新聞1966 年2 月9 日)。自販連でも中古車委員会を新設し、その販売部会において中古車輸出問題を議題とする方向であり、記事では国内の販売流通の一環という捉え方に変わってきているとしている(日刊自動車新聞1966 年4 月30 日)。これらを見ると、制度化以降、自動車業界における中古車輸出の位置づけが変わってきており、新車販売業者側が中古車処理対策としての輸出を本格的に検討しているように感じられる。新車販売業者の中古車輸出に関する記事は1967 年以降もある(日刊自動車新聞1967 年6月13 日、1967 年9 月1 日、1968 年5 月11 日)。阿部(2016)では、これには利潤動機もあるが、窓口の一本化による不良輸出業者の排除という意図もあるようだとする。
中古車輸出については現代になっても生産者や新車販売業者など動脈産業側が表立って推進している印象はない。国内の中古車市場のように中古車輸出市場のルールを動脈産業側が整備するなどの様子も見られない。その理由は何なのだろうか。阿部(2016)では当時の自販連の中古車委員会がどのように結論付けたかなど、動脈産業側の姿勢を十分に解明していない。この点は課題としたい。
6.まとめ
昨今、循環経済(サーキュラーエコノミー)が話題になっている。自動車においては、中古車市場やリサイクル市場はかねてから自然発生的に存在しており、またそこに生産者や新車販売業者などの動脈産業が関わっていた。それは、下取りという形で古い車を買い取る仕組みのほか、その後の流通を効率化させるための量的、質的な対応であった。
循環経済においては、環境負荷の低減や資源の確保などが古い車の回収の動機になるだろうが、いわゆる下取りは新車販売が動機にある。それは今回見たように動脈産業側が循環経済に関わる強い動機と言ってよい。日本ではその動機が根底にあったことで、下取り後の中古車市場の効率化のための整備も動脈産業が関わった。自動車特有の事情は考慮しなければならないが、本稿の流れを見ると、生産者、新車販売業者は、静脈市場を無視して作りっぱなし、売りっぱなしだったとは言い難いところがある。
問題は、古い車を回収しても新車販売に繋がらない可能性があることである。例えば、消費者は古い車を引き渡すだけで、新しい車を買わないという状況がある。あるいは、古い車を引き取った新車販売店で新車を買わないという状況もありうる。そうなると、新車販売業者、生産者は古い車を何でも回収するという仕組みの構築に対しては積極的にならない。この部分を生産者の責任とするにしてもその制度化に抵抗は生まれうる。
自動車リサイクルの制度における、使用済自動車またはその一部を動脈産業が回収するという仕組みは、古い車の回収という一部分で下取りと同じだが、そこに新車販売という機能があるかないかは大きな差である。新車販売という機能があることで、下取りの動機が生まれるが、全ての使用済自動車の回収において新車販売が紐づいているわけではない。逆に社会の要請により環境負荷の低減を目的に、古い車の回収を求められたとしても、新車販売に繋がるのであれば前向きになる。つまり、結果的に新車販売に繋がるのであれば、古い車の回収を動脈産業主導で行うことに抵抗は生まれにくい。
一方で、下取りは新車販売を促進するものであり、脱炭素の視点からは社会的に望ましくなく、循環経済の考えとは逆の方向になる可能性はある。尤も、燃費を向上させるなどで新車への買い替えが脱炭素に繋がる場合も想定され、それは生産から廃棄までの温室効果ガスの排出の程度による。仮に販売を促進することで温室効果ガスの排出が増えるのであれば、下取りは否定されうる。この点は留意する必要がある。
参考文献
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